「人生はこうあって欲しいと思っても、かえってそうでない方向に向かう。必ずしも思いどおりにいくわけではなく、むしろ驚くようなことが常にある。だからこそ面白い。」 窓辺に座った木寺昌人大使は言った。2013年6月、60歳の駐中国日本国大使は大使公邸で「Lens」誌の単独インタビューを受けた。
2012年、日中両国は尖閣諸島(原文は「釣魚島」)を巡る問題により日増しに関係が悪化、前任の丹羽宇一郎駐中国大使が離任し、新たに選ばれた西宮伸一駐中国大使もまた赴任前に突如病没され、内閣官房副長官補に就いてわずか2ヵ月で木寺昌人氏が危機に際して任命され、駐中国大使を引き継いだ。木寺大使はフランス語に長け、駐タイ国日本国大使館公使や駐フランス日本国大使館公使を務めたが、中国と関係する職務経歴は1991年から1993年までの外務省中国課での仕事しかない。こうした背景で駐中国大使に選ばれて一番驚いたのは他ならぬ自分自身だと、木寺大使は率直に語った。
就任後、木寺大使は積極的に中国メディアと対話し、「足で稼ぐ外交」に努めている。大使は人と付き合うことが好きで、縁を大事にし、日本人の心が中国からますます離れていっていることに話が及ぶと心を痛めている様子を見せ、また、両国の交流の曲折を話すときには語気がいささか重々しくなったが、問題を解決する期待と実務的な方法が言葉の中に多く垣間見られた。
Lens:大使の母親と祖父は中国の大連で暮らしておられたのか。
木寺大使:私の母は大連で生まれ、その自然のなかで育ち、1941年に祖父とともに日本に戻った。こうした生活が母に残したものは、長年経っても消えていない。母は人に対しておおらかな性格で、こうした性格の特徴も自分(木寺大使)に影響を与えている。2003年か2004年のことであったが、母は60年もの間離れていた大連に戻り、当時の女学校の同窓生と再会した。私にこの経験を話す時、母は時折、熱い涙を目に浮かべる。その度に私は出会いのありがたさと愛おしさを感じる。人生とは新たな出会いの連続であり、それぞれの場所での出会いを末永く大切にすべきこと、これは外交の仕事でも、とても大事である。実際、私は外交には、ミラクルやマジックはないといつも思っている。地道に多くの人と会い、そうした交流の中で出口を見つけていくべきである。
Lens:大使は幼少の頃、父親についてパリで過ごされたこともある。この経験における最大の収穫は何か。
木寺大使:父の仕事の都合で、私が子供の頃は転校を繰り返し、小学校を6つも変わった。日本に戻った後は、また新たな生活に慣れなければいけなかった。日本の小学生は計算が速くできなければならず、きれいに漢字が書けなければならない。環境の変化に何度も戸惑ったことを今でも思い出すが、これも新しい環境に慣れることの大変さを早くから経験させてくれた。
フランスに行って最初は何も分からないので、一生懸命フランス語を勉強したが、それは小学生が勉強したフランス語である。外務省入省後に、また本格的にフランス語を学び、若い頃は天皇陛下や総理大臣のフランス語通訳を務めた。フランス語は便利な言葉であり、東京でも、北京でも、フランス語を話す各国大使や友人の方々とよくお付き合いさせていただいている。この言語は今の自分の仕事にも大いに役立っている。
Lens:大使の職業人生のなかで、忘れられない経験や人物は何か。
木寺大使:外務省に入省する前、自分が想像していた外交の仕事とは、いろいろな国を飛び回って仕事することであった。私は、21世紀に入ってからの約13年間で、10以上の職務を経験し、頻繁にポストが変わっている。だが、結果的には、誰も経験できないようなことをやらせていただき、私自身はありがたいことだと思っている。
特に忘れられないのは、1986年~1988年のことである。当時、日本は積極的にカンボジア和平を推進し、ASEAN統合に繋がる新たな道を切り開いた。自分は外務省の南東アジア第一課の首席事務官として、カンボジア和平に自ら関与した。
また、1996年~1997年に梶山静六官房長官の秘書官を務めた。ちょうど橋本内閣の頃である。総理官邸と外務省の間に立って調整を行うのは、難しい仕事であった。梶山官房長官は大変実力のある大物政治家で、私は毎日よく叱られたが、その厳しいご指導がなければ今の自分はなかったと感じている。
Lens:日本の外交界では、大使には「火消しの専門家」との名声がある。
木寺大使:「火消しの専門家」と褒めていただくのは光栄だが、私が難しい問題を解決するための特段の能力を持っているとは思わない。ただ、私は人との付き合いが好きであり、難しい問題の解決の方法を知っている人とよく巡り会えた。困ったときに相談できる人が多くいる。外交にはミラクルやマジックはない。地道に多くの人と会って、話をしていくなかで良い解決方法を見いだしていくというのが私のスタイルである。
Lens:大使が駐中国大使に任命されたときは、まさに日中関係が微妙な時期であった。丹羽宇一郎大使が離任され、西宮伸一氏が赴任前に亡くなられた。大使は中国での任期にどのような目標を設定したか。
木寺大使:丹羽大使は経済界で大活躍され、実績のある方である。西宮大使は、外務省で同期で入省した同僚であり、この友人を失った驚きと哀しみは大きい。その後、駐中国大使に私が任命されたが、一番驚いたのは私自身だと思う。
日中関係が厳しい中で大使に就任したので、私にとっては大きなチャレンジであるが、自分の生涯で積み重ねてきた様々な経験を活かして、一歩一歩地道に仕事をしていきたい。赴任前から、私は自分の第一の任務は日中の友好関係を拡大・深化させることであると一貫して述べてきた。日中国交正常化から40年を超えて、日中関係は幅広く、深くなっており、簡単に壊れるものではないと確信する。その意味で私は日中関係を信じている。
私は北京に着任後、足で稼ぐ外交を進め、色々な方々にお会いしてきた。また、私たちは日中両国の各界の人々と協力して、日中成人式、太鼓イベント、日本食紹介イベントなどの交流イベントを開催してきた。私も日中友好の最前線で活躍されている方々の努力を後押ししてきたが、今後も日中友好に役立つことを多く行っていきたい。
Lens:日中関係で最近発生している波風についてどのような見方をしているか。
木寺大使:先ほど申しあげたとおり、日中関係はすでにたいへん幅広く、深くなっており、経済、文化、その他の面でも緊密な関係がある。最近政治面で困難な状況があり、またそれが両国関係に影響を及ぼしている。政治面で困難があっても、経済面、人的交流の面の交流を推し進めたい。日本は中国との間で様々なレベルの対話を行いたいと考えている。日本は中国との対話のドアを一貫して開いており、積極的に対話を行って、双方がこの道を通じて現在の困難を乗り越えていくことを望む。これが私の今の考えである。
日中両国は何千年もの交流を続けてきた隣国であり、時代によって、国の状況も変わり、互いに相手への見方も変わってきている。近年、日中両国の政治関係は難しい問題が湧き起こり、様々な世論調査の結果を見ても、両国民の相手国に対する国民感情には疎遠なところがある。これは残念なことであり、私としては、この現状を何とか改善したいと願っている。
実際、日本人ほど中国の歴史や文化に慣れ親しんでいる国民はいない。昨年、故宮博物館の「清明上河図」が東京で展示された際、人々は連日2、3時間以上並んでようやく一目見ることができた。最終日には5時間以上並ぶ必要があった。私と妻も長い時間並んでようやくこの絵を見ることができた。日中両国国民の相手国に対する感情は、単純でなく、複雑である。だが、ともに努力することで、相手に対する見方を変えることができる。今疎遠なところがあったとしても、良い方向に変えるよう、双方がともに努力していくべきである。
また、中国では多くの人が日本を軍国主義の国だと考えているようであるが、初めて日本を訪れた中国人観光客は、街に軍服姿の人がいないと大変驚くという話を聞いた。また、日本を実際に訪れた中国の方は皆、日本に対する印象が変わったという話も聞いた。日本の今に生きる伝統文化、秩序だった現代的な街、お店のお客様へのサービス等、日本に好感を持って帰られる中国の方は多い。「Lens」の読者の方々も、機会を見つけて、是非、実際の日本を見て欲しい。
Lens:日中国交正常化40年来、或いはもっと早い頃から、「日中友好」という言い方は重視されてきた。しかし、日中の国民の互いの好感度が下がっている以上、両国関係を処理する際には、より一層実務的な措置が必要ではないか。
木寺大使:おっしゃる点はよく分かる、これは難しい問題である。ただ、別の側面から見ると、先ほど申し上げたとおり、日中関係はこの40年間でとても幅広くなり、また日増しに深くなっている。日中関係は簡単に壊れるものではないと確信する。日中間の協力を仕事にしている方も両国でそれぞれ大勢おり、私はそういう方たちの努力を後押ししていきたい。日中両国が協力していくことは双方によいことがある、こういう大きな理念を声高に言っていかなければならない。
また、未来を担う若者や青少年の間での交流も大事である。日中両国の若者に相手の国の真の姿を理解させるため、日本側は積極的に青少年交流を推進している。本年1月、安倍内閣は、「JENESYS2.0(21世紀東アジア青少年大交流計画)」という計画を実施する旨発表した。日本は今後、3万人規模でアジアの青少年を日本に招へいする。中国の青少年も数千人規模で日本に招へいし、日本の魅力を知ってもらいたいと考えており、今、準備を進めている。
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